水底飛行場

試行中……

2023年9月21日 1355文字 『海を見に行く』

 そもそも、スーツを着るのが苦手なのだ。布地がかたくて伸びないから、動きづらくて体が凝る。ポケットも浅くてぺたりと閉じていて使いづらい。たまにしか着ないからいつまでも慣れない。靴も同様である。パンプス、あれを労働のために履く理由がわからない。見た目だけで選ばれているなら一日動き回ることを軽く見ているのではないかと怒りが湧く。せめて、と思ってフラットシューズを選んだ。かかとが上がっているパンプスよりマシではあるが、足はかたい靴底、から伝わるかたい地面の反作用を受けて疲れやすくなる。もしかしたら、パンプスは疲れにくい、動きやすいと思っている人もいるのかもしれないが、そういう人は自分が特殊な訓練を受けた超人だという自覚を持った方が良い。

 苦手なスーツを着て、苦手な靴を履いて、電車とトラムを乗り継いで、私は大きな区民施設にやってきた。県内の企業が合同で行う説明会、面接会があるのだ。一か月ほど前に、呼吸を落ち着かせながら申し込んで、今日、腹に力が入らないながらも会場までやってきて、会のはじめの全体説明をしかめ面で聞き、いざお好きなブースへどうぞとなったとき、私はまず会場の外に出た。いったんお手洗い~、という言い訳じみた声が頭の中から聞こえた。狭い個室で、ため込んでいたなにかを息とともに吐き出した。呼吸に意識が向くときは、ふだんの呼吸ができていないときだ。胸がうすく圧されているようだ。おなかがどろんとうなだれて力が入らない。頭に膜が張ったようになっている、外界の様子をうまく受け取れない、頭の中がぼやけて考えるとか選ぶということが明晰にできない。会場外の椅子に座り込んで、同年代のスーツたちの往来が目に映る。映るだけで、何も考えられない。

 ぼやけた頭の片隅で、膜をなんとか破った声が、こりゃだめだ、と言った。だめだ、帰ろう。一旦この建物から出よう、今日は天気もいいし、風もあるし、暑くも寒くもないから。

 帰る、と決めた途端に軽くなった。頭や体がすとんと軽くなって、私は足早に外に出た。春だった。空に雲はあるが、おおむね晴天だ。最寄りのトラムの駅で座っていると、風が心地よくてほっとした。いい天気だね、せっかくこんなところまで来たし、海でも眺めない?声がとても素敵なアイデアを提案した。私は、そのアイデア乗った、と返事をして、やってきたトラムに乗った。島しょ部に向かう船が出ている港まで、10分ほどである。この路線には海岸通りという駅があって、あるロックバンドが同じタイトルの曲を作っていたことを思い出す。春が舞う海岸通りを通過したら、港まであと少し。

 港にはパン屋がある。私はここの塩パンが好きだ。飲み物とパンを買って、ベンチに座る。私はどちらかというと山のほうで育ったので、海の匂いはなじみ深いものではない。海の匂いはなまぐさいと感じる、それが嫌ではない。陽光が海の表面にぶつかって反射する。水平線はほとんど見えない、小さい島々が集まった海域だからだ。そのかわり穏やかな海だ。

 しばらくぼんやりしていた。パンがしょっぱくてうまい。晴天の春の海は眺めていると気持ちいい。もう息は苦しくないし、お腹に力が入らない状態もだいぶマシになってきた。ただ、疲れた、疲れた、疲れたから、パンも食べたことだし、そろそろ家に帰ろう。