水底飛行場

試行中……

2023年11月22日 2000文字試し2

2000文字試し。

 特に書くことを思いつかないときの2000文字、書く内容は決まっているけれど、興味が湧かないときの2000文字は大変だろうなと思う。それから、体調が整っていないときの2000文字。睡眠不足とか、体が痛いとか、精神的に安定していないとか。頭の働きに直接響いてくる状態異常なら、その日はもう休んだ方が良い。

 昨晩はゲームをしていて、消灯が遅くなってしまった。部屋を暗くしてもさっきまでプレイしていたゲームの音楽が頭の中で流れっぱなしになってしまって、なかなか寝付けなかった。そういうときの寝起きの感覚は気持ちのいいものではない。眠たいのに二度寝ができない。起きればいいのかもしれないけど、眠たいし目が開かないので起きられない。いくら寝返りを打っても落ち着かない。苦しい。

 そういうわけで、今の私は睡眠不足で、2000文字書くのが大変な状態にいる。眠たい。

 朝は7時半から8時に起床する。目が覚めるのはもう少し前で、目覚めから起床までのあいだ、横になって起き上がれるタイミングを待っている。目覚めと起床に距離がある。パソコンのように、起動するのにある程度の時間が必要なのだ。早起きしないといけないときは、起動時間も考慮してアラームを設定しておかないといけない。消灯時間は決めていない。決めていないが、なるべく日付が変わるまでには寝ようと思っている。思っているだけなので、簡単に夜更かししてしまえる。

 小学生のとき、夜10時45分に寝れば朝6時半に目が覚める!と気づいたことがあった。あれはなんだったのか。

 数日前、出勤時間が早い日に、6時半のアラームをセットしたら、ここ数日はアラームがなくても6時半ごろに目が覚める。目が覚めるだけで起床はできない。もっと眠りたいし、布団の外は寒い。

 何時に消灯して、何時に起きるのが自分に合っているのか。少なくとも、8時間くらいは眠った方がいいということはこれまでの生活でわかっている。ショートスリーパーでもロングスリーパーでもない。あと、8時間は8時間でも、遅寝遅起きの8時間じゃない方がいいらしい。23時くらいに消灯して、7時台に起床できれば上々だなと思う。……じゃあ、それでいいんじゃない?23時までに消灯するようにして、7時周辺に起きる。いいじゃんこれで。いいじゃん。

 起きるのは、アラームかけるとか、暖房のタイマーをセットして朝の部屋を暖めておくとか、寝巻きを重装備にするとか、上着をすぐそばにおいておくとか、できることが少ない。なので、全部やろうと思えばできる。

 問題は夜だ。夜の過ごし方や準備がものすごく大事なのに、油断したりあいまいになったり詰めが甘くなったりする。よくない。睡眠は減点方式らしい(※1)ので、寝る前の時間をなんとか良い感じに組み立てたい。寝る前に特定の音声や動画を観たり聴いたりすると、頭の中でそのイメージや音が流れて寝付けないことがよくあるので、寝る前は、ひとまずゲームや動画視聴はやめた方がいい。体が冷えると寝付けないので暖かくして、ストレッチしよう。翌日休みだからといって、夜更かししていいわけではない。翌日休みだからこそ、ちゃんと寝てすっきり過ごした方が気持ち良いし楽しいと思う。ただ、翌日休みの夜は解放感があって、それはそれで楽しいのだ。夜にやるゲームは楽しい。バランスをとれるだろうか。時間を決めてやる?本を読む時間を確保したくて、夜に読むのはどうだろうと思っていたりもする。寝る直前まで電子画面を見るのはやめておきたい。21時くらいにはおしまいにする。夜の1時間は思ったよりあっという間なので、本を読んでいたらすぐに22時台になっていることが多い。ぼんやり読める本を読んだらいいよね。日中読む本と寝る前に読む本は分けたいかも。

 ここまで1時間で1600文字程度。

 朝ご飯をトーストだけにしたらお腹空いてきた。眠さに負けてさぼったら、ちゃんと早くにお腹が空いた。マグカップの飲み物はすぐに冷めて、冷えてしまう。サーモ、という名前がついているマグカップは保温してくれるのかな。

 ゲームを買ってから本を読まなきゃという圧を忘れていた。圧を忘れて、今は、具体的にどうしようかと考えられるようになった。自然に取り組めないなら、時間を確保するしかない。

 本が好きだと堂々と言えたのは小学生の時だ。だんだん読むことから離れて、大学を卒業して、また少しずつ読むようになっている。読むのは習慣、筋トレに似ているそうなので、とにかく1日の中に読む時間を確保して、習慣として身につけていく。最初はひとまずそれでやってみよう。読むのが面白いのは知っているから、気楽にいこう。

 読まないこと、読む習慣がないことが、なんだか恥ずかしいのだ。学ばない、勉強しない人間になったことが恥ずかしいらしい。自分にとって本を読むことは勉強することなのか。漫画は楽しみとして読んでいる。文字の本は、なんとなく、勉強という気分が大きいらしい。文字の本も楽しみとして読めると思うのだけど。興味があるから、面白そうと思うからその本を選んで買ったわけで、今私の手元にある本で楽しみのない本は一冊もないはずだ。大丈夫、どの本も面白いと思うよ、私が私の興味と感覚に沿って選んだのだから。

 私は、勉強することをかっこいいことと思っているのかな。そんなに美化することでもないだろうけど、かっこわるいことでもないよね。学生時代は怒られたくない気持ちが大きくて仕方なくて、まじめに勉強することで怒られないように過ごしていたから、勉強することを美化しないとやってられなかったのかもね。パフォーマンスとして勉強していたということか。いまはもう、だれに見せるためでもなく、自分のためだけに勉強できるよ。よかったね、この楽しみはもう私だけのものだよ。

 本を読む人はかっこいい?私ね、本を読んでいる人の姿とか手元とかの写真とか動画が好きなのよ。これは、フェチとかいうやつなのかな。本を読む人は(その見た目が)かっこいいと思っているよね。勉強しているからかっこいいとかではなくて、本と、それを扱う人の挙動のセットがなんとなく好きってことかな。なんて言えばいいかな。坂本龍一氏のドキュメンタリー映画(※2)で、氏が自身の作業場で椅子に座って、文芸書の単行本くらいのサイズの本を触るシーンがあるのですが、片手で本を持って、もう片方の手でかためのページを1ページずつはぐっていくその所作と、ページが1枚1枚めくれる音と、その手元をじっと見ている氏の後ろ姿と、全てがとても魅力的に感じられて、そのシーンを観るときは他のシーンよりも集中を濃くして観ていました。本を読む姿が好きなのと、あとたぶん、手に魅力を感じるんだろうね。

ここまで2880文字。



※1  睡眠学者、柳沢正史だけど質問ある? | Tech Support | WIRED Japan  わかりやすくて面白かった。

※2  11/4(土)公開『Ryuichi Sakamoto CODA』予告編

2023年11月21日 2000文字試し

2000文字がどれくらいか。試し。

 2000文字がどれくらいの量か、実際に書いてみて、体感してみようとしている文章である。大学を卒業して、この文字数でこのような内容の文章のかたまりを書くように、という機会が一切なくなった。大学生のときがいちばん書きもの仕事をしている人と状況が近かったのだなと思う。レポートは、どうだったろう、私はすんなり書き上げていただろうか?いや、すんなり、という記憶はない。書いて、まだ足りない、書いて、足りないもう少し、ひい、書いて、やっと文字数クリアだ、整えて、提出。という印象が残っている。書くのは大変だ。慣れないし、内容に興味があるわけでもないし、大学のレベルに自分の頭がついていけていたのか怪しいし。執筆の段階も大変だったけど、体裁を整える時間もまあまあ時間を食っていた気がする。指定の型に合わせるとか、指定はないけど、ある程度整え方の一般解みたいなものがあるので、それに沿うように気を遣うとか。型は覚えてしまえば楽なんだろうけど、なかなか、考えないで型に合わせられるところまで習熟しなかった気がする。大学のレポートは、ぎぎぎ、という感覚、スムーズでない、なんとかしのいだ時間という記憶の集まりのようである。

 卒業論文の反省は、こまめに先生に相談すればよかったなという感じだ。ただ、相談するには、自分がどうしたくて、でもここがスムーズでない、というようにある程度状況が把握できていないとクリアにできない。だから、相談できなかった。自分で状況が掴めていないから。でも、状況が掴めません、という相談をすればよかったのだろうけど。状況が掴めていないこともわかっていなかったのかもね……。難しかった。人生ではじめて二万字程度のまとまった文章を書いたのだ。難しかったし疲れるし、体裁を整えるのも労力が要った。大変だったなあ。その割にクオリティは高くなかった。それはまあそうか。練習量が多いとは言えなかったから。今ならもっとうまくできる?今なら、テーマを決めるところからやり直しだと思うよ。問いを立てるのは、難しい、いきなりできることではない。

 少し前に、GoodNightというタイトルのお話書いたじゃん。あれは2万文字くらいだったよね。めっちゃ時間かかった、一日に書く量が少ないし、書かない日も多くあったから。楽しかったけど。文字数というか、内容を組んで、それに沿って書くわけですが、量が思ったよりあったんだよね、それで、量に振り回されるような感覚だった、自分がお話の本文を掌握しているような感覚は皆無で、本文に迷い込んで右往左往しながら肉付けしていくような感覚だった。難しかったね。でも、卒論とちがうのは、こちらは楽しさ充実がずっとあったんだよね。自発的で、完成させたいという気持ちがあって、やりたかったことだったから。反省は、はじめて書くには量が多かったな、とか、もうちょっと骨組みしっかりめにやってから書き始めてもよかったな、とか、一日に書く量をもっと増やしたいな、とか。

 そうか、この時点で、書く量を増やしたいというのが出ているんだ。一日に書く量を増やすって、体力をつけようというのと似ているのではないかと思った。活動の基礎になる部分をもっと増やして安定させたい。ただ、一日に書く量を増やしたいという目標は、体力をもっとつけたい、より、なにしたらいいかぱっと思いつかない。体力だったら、毎日歩こうとか筋トレやろうとかよく食べてよく寝ようとか、具体的に何したらいいかわかる、身近だから。書く量を増やしたい……?過去の私はそこでストップしてしまって、調べることをしなかったのがまずかったのだろうなと思う。書く量を増やす、で検索してみようか。

 検索したら、https://socratesbiz.net/wp/long-writing/ ←の記事を見つけた。記事の質を落とさずに文章を長くするには、具体例を増やすこと、上方の詰め込みすぎに気をつけて。ということが書いてあった。

 それから、https://writing-daiko.com/webwriter/alltext/augment/ ←こっちの記事は、あと500文字を増やす方法について、専門用語をわかりやすい表現に言いかえる、全体の構成を考える段階で本文以外にも量を分配しておく(あらかじめリード文、最後のまとめ、各項目の小まとめなどに量を割けるよう設計しておく)、具体例を入れる。

 どちらも、目的のはっきりした文章の量を増やすテクニックの話だ。基礎体力をつけるための方法ではないが、単純に、参考になるなあと思った。ネットでちょっと検索するだけでも参考になる情報が出てくるのだから、気軽に調べてみたらいいのだな。私はただ反省点だけ出して、そこから何もしないのがよくないのだ、せっかく反省点が出たのだから、活かすように行動してごらんなさいよ、という反省点がいま出た。

 あと、長い文章が書けるように、と思っているけど、何についての文章なのか、どれくらいの時間で何文字書けたらいいのか、具体的なところがなんとなくあいまいになっていないか?なってるよ、あいまい、なんだったっけ。お話を書いた反省点として、お話の本文を一日に書き進める量を増やしたい、と思ったわけですよ。前提として、お話の設計をひととおり組みました、というのがあるね。一日の、私がなんか書いてるのは午前中が多いから、午前中の、9時から11時としましょう、2時間。

 (ちなみに、ここまで、11時から書き始めたらしいんですが、いま11時55分で、2293文字だってさ。スムーズに2000文字書けてるよ。テーマがあったからね、私にとっての長めの文章を書くことについて。)

 スムーズにいけば、一時間で2000文字書けるらしい。でも、いつもこんな調子いい感じではないので、まあ、1000文字からよくて1400文字書けたら上出来、という感じなのかな。Wordのデフォルト設定1ページぶん。タイピングの速さとか、検索などに使う時間とか、そういうのも込みで、1時間で1000文字以上を安定して書きたい、という感じになるのかな。

 お話の本文だから、記事とは違う部分も大いにあるでしょうけど、何について書くかはっきりさせておくとか、設計がひととおりあるとか、必要な条件は似ているはず。あと、書く人の体調が安定しているとか。

 あとそう、あのね、設計がある前提で書くものとノープランでだらだら頭の中を吐き出すみたいに書き出すものの、それぞれに向かうモードをちゃんと分ける必要があるな。頭の使う場所が違う気がする。記事と、お話と、日記(吐露)、みたいな分類があると思う。

 この文章は、考え事の文章だから、吐露に近い。人に読ませる気がない、自分が考えたことを書いてその軌跡を確かめるためのもの。だからこれだけスムーズに書いていけるのだろうなと思う。ためらいがない。気を遣う対象がいないから。

 あと、ここまで、1時間半くらい座りっぱなしだったのですが、トイレ行ったら、足がふらついて、血行がそんなに良い感じではないね。1時間ごとに立って動くようにした方がいいな。タイマーとかあった方が良いかも。

 書く内容に興味があるか、というのもだいぶ大事なのだろうけど。お話なら、それは、自分が好きで書いているので、まあ大丈夫かなと思う。たぶん。記事だと、ネットで検索できる程度の情報なら取り込めるけど、それ以上は、いけるのか?

ここまで1時間半で3081文字。

2023年10月2日 1144文字『秋冬服』

 ついに、暖かい布団から出て行くのが難しい季節になってしまいました。今朝の布団はそれだったので、起きるつもりの時刻から30分以上うとうとしていた。気持ちよかった。10月はさすがに秋の様相である。9月もずっと暑かったから、どうなるか少しだけ心配なところもあった。でも、公転はちゃんと地球表面の状態に影響を与えている、いま、太陽と地球の位置関係は、この土地に秋をもたらしている。

 秋、好きだ。涼しくて風が気持ちよくて夕暮れがさみしくて楽しい。季節の変わり目なので、体調が寒さに対応しようとうごめき始める。そのことに気をつけていれば大丈夫、春よりは体も楽で過ごしやすい。

 暑い寒いの変わり目は着るもののことを考える。これから長袖を着ていくのだろうけど、あたらしいのは買い足すのか、買うならどんなのがいいか、靴下は足りているか、ネックウォーマーは買い替えよう……。わさわさと冬支度が始まる。別に寒地に遠出する予定はないが、ある程度見通しを立てておかないと、私は忘れるし、必要なのにいつまでたっても買わないということをやりがちである。先に組み込んでおく。

 こういうのはもうちょっと先にやっておくべきことなのかもしれない。本来は、秋だなあ、と思ってからでは遅い。秋が近いなあ、くらいで動き始めるのがちょうどいいのか。服の売り場ではまだまだ暑くて半袖しか考えられない時期から秋物を置いていて、あの速度にはついていけない。夏の日差しに秋の風が吹き始めた頃、先週くらいから準備し始められたらいいのかもしれない。今の自分にはまだできない。秋だなあとは思っていたけど、季節の変わり目ということと次の季節何着るかということがあんまり結びついてないっぽい。

 とはいえ、いまのところ、着るものにおおきな変動はない。そもそもファッションに大きな興味がない。興味がないから、普段は見ない服の店のサイトを、季節の変わり目になってからやっと眺めはじめる。服好きの人がすぐたどり着く地点に、数年かけてたどり着いて感心している、そんなお気軽な感覚である。ただ、こだわりはあって、さわり心地が好ましくて動きやすいことがとても大事だ。さっと走り出せない服や靴が苦手で、なんだか固くてごわごわした服も苦手だ。私はリクルートスーツを着るのが苦手だが、その理由がここにある気がする。色はカラフルなものは選ばないというか選べないというか、やたら白黒紺が多い、たまにベージュが登場する。小さいカバンや靴下なら色を受け入れられる、マスタードみたいな黄色とか、緑とか、紫とか。農作物みたいな色ばかりだね。

 モノクロと植物カラーの柔らかい動きやすい服で生きている。この方針に不満はないし、たぶん今年の秋冬もそんな感じだし、今後もこの向きのままやっていくと思われる。

2023年10月1日 1418文字『修正の人、引き出しの人』

 喋るのは難しいなと思っている。一度声に出すと修正が難しいし、正しいことを言わないといけないんじゃないかという恐れがいつもあるし、そもそも何が言いたいのか自分でもよくわからず、始終混乱している。そう、混乱しているのだ、頭の中が高速で振り回されている。

 どうしてこんな状態になっているのか、糸口が見えた気がする。私の頭の中に、修正の人がいる。私が言ったことにたいして、それだけじゃないだろこういうのもある、と口を出してくる。揚げ足をとるように、言ったことがさも正しくないかのように、修正してくる。私がそのとき言いたいのはAなのに、AだけじゃないBもあるだろうと言って、補足のつもりでお前の言うことは不十分だと圧をかけてくる。別にいいのに、Aって言いたいんだから、Aだけ言えばいいのに。現実世界でクソリプを怖れているかのようなひとだ、修正の人。

 それから、引き出しの人もいる。話をしていて、思い出したこと、過去に読んだ本の内容などが思い出されたとき、その部分の引き出しを引っ張り出してきて、こういうのがあるよ!と勢いよく持ってくる人だ。思い出すだけならいいのだが、それも言え!と圧をかけてくる。言わなくてもいいのに、言えそうだったら、言った方がよさそうだったら言えばいいのに、関係なく、思い出したこれを言え!と引き出しごと押し付けてくる。落ち着いてほしい、引き出しの人。

 私の中には修正の人と引き出しの人がいて、話を始めると二人が騒ぎ始める。私はそれを押さえつけながら話をしないといけなくなり、やることが多くて苦労する。モグラたたきをしながら話をするのは、私には難しいのだ。ふたりの頭を押さえつけていると、言いたかったこともうまく出てこなくなったりもする。でも野放しにもできない、話が別の方向に逸れたり、どう話していいかわからなくなる。

 修正の人は不安そうである。自分が正しくないことを怖れている。正しくないことを言うと攻撃されると思っている。正しいってなんだろうね。誰にとっての正しいとか正しくないなんだろうね。正しいことを言いたいのかな。正しいことじゃなくて、自分が言いたいことを言いたいだけなんじゃないかな。怒られるのがこわいんだな、ずっと、もうずっと。怒っている人の声とか雰囲気のトーン、それが自分に向いていること、攻撃。正しくないことをすると攻撃されるので、真面目に振る舞ったりしていましたが。修正の人は怒られるのがこわいんだね。

 引き出しの人。子どもの頃の成功体験かな、情報を再生すればなんか賢い感じになって群れの中に居場所ができて楽だったんじゃない?子どもの頃はね。本当はひとりで自分の好きなことを興奮するまま喋っていられたらよかっただろうし、なんにも喋らないで誰にも干渉されないでどこにも連れて行かれないでいられたらそれがいちばん楽だっただろうね。嫌な思い出疲れたこと、すべて他者が介在している、子どもの頃の記憶。ひとりがいちばん楽しいんだもの。群れの中でなんとか過ごすための作戦だったのかしら。引き出しの人。

 私の中に怒られるのそんなに苦手じゃない人いないのかな、いるかな。不安を無視しないこと、というようなことを尹さんがワークショップで言っていたね。喋りながら、自分はいま正しくないことを言ってるんじゃないか、という不安を無視しない、怒られているときの、体の感覚を無視しない。修正の人も、引き出しの人も無視しないで、一緒に過ごそう。

2023年9月24日 1145文字 『ファミレス』

 ファミレスと縁が遠い。

 どうしてそういうことに気付いたかというと、私はサイゼリヤに行ったことがないと気づいたからだ。いや、正確には、一度行ったことがあるかもしれないが記憶があやふやであれがサイゼリヤだったかどうか確証をもてない、だ。

毎週聴いているラジオ番組で出演者のひとりが、イベントの打ち上げをやるときお金の出所が心配になる、売上げに手をつけちゃだめだ、俺はもうサイゼでいいから!というようなことを喋っていた。サイゼかあ、そういえば行ったことないな、と思った。現在も最寄りのサイゼリヤがどこにあるのか知らないし、ねこの配膳ロボットがいるファミレスはどこかもよくわかっていない。

単純に、生活の中で行く機会がないのだ。まず、家から歩いて行ける距離にファミレスの店舗がない。徒歩30分くらいのところにジョリーパスタがあるが、そのすぐそばにマックがあるので行ってない。そして、そもそもジョリーパスタはファミレスと呼んでいいのかもよくわかっていない。また、ファミレスについて考えるとき最初に思いつく店名はガストなのだが、最寄りのガストがどこにあるかわからない。ファミレスとの間に物理的に距離があるので、精神的に近づこうとも思えないのだ。

子どものころに親が連れて行ってくれる外食は、商業施設に入っている洋食のチェーンか蕎麦屋か回転寿司チェーンか、お好み焼きの持ち帰りか、だった。幼少の記憶の中でファミレスに行ったものを掘り返すと、映像は待合席のところで、そこに祖父母がいる気がする。墓参りの帰りだったのだろうか。

 ファミレスでドリンクバーとポテトだけ頼んでゆっくりするという過ごし方がある、と知ったのは大学生になってからだった。ひとり暮らしの部屋から自転車に乗って、大きな車道沿いのガストに向かった。少ないお金を財布に入れて、サンデーとポテトを頼んだ、ような気がする。昼過ぎか夕方だったと思う、混んでいなかったはず、混んでいたら入店していないだろう。そういう行動をしたというのは覚えているが、どれくらい滞在したとか、どう思ったか、ということは覚えていない。たった一度、そういうことをした、というのは覚えている。

 少し前に、ファミレスが舞台のゲームをやった。パソコンでできるゲームで、無料だった。深夜のファミレスに閉じ込められ、ほかの客と会話しながらファミレスの謎を解くという内容だった。とても面白かったし、ファミレスにこんな郷愁を抱いているひとがいるのかと新鮮な驚きがあった。

 もし、徒歩圏内にファミレスが出来たら、私は行くのだろうか。現在、徒歩圏内にマックやフードコートがあるのだが、それらを振り切ってファミレスを選ぶことができるだろうか。だれかがファミレスに感じている気分を、私はどんな場所に抱くだろうか。

2023年9月22日 1010文字 『低い近い通過点』

 おそらく、高いところをみてぼーっとする癖があるのだろうと思う。高いところ遠いところ。海を眺めるのが好きなのも、背の高いものを見上げると一瞬立ち尽くすのも、現在地からはるかに高い遠い到達点を見つめて体が動かないのも、そういう癖、自分あるあるなのだろう。

 私に「困難は分割せよ」という言葉を教えてくれたのは国語の教科書の中にいるルロイ修道士だったが、具体的にどのように分割するか教えてくれたのはzoomの向こうの人だった。高くて遠いとぼーっとしてしまうが、低い近いところならぼーっとしない。低い近い通過点を繰り返して、気がついたらけっこう遠くまで来たものだとスタート地点を眺めるような形なら、私は高いところ、遠いところまでやってこれそうだと最近気がついた。

 これはつまり、毎日少しずつやる、コツコツやる、ということでもある。これまでの自分に縁のない行動である。夏休みの宿題は終盤にまとめてやるタイプだった。何かにハマると数週間から数か月はそのことに熱を上げ、しばらくすると飽きて離れる、また別の何かにハマり、短期間盛り上がって、飽きて離れる、繰り返し。常温の気分で、毎日淡々と続くものなんて、なかった。

 小さな変化が起こったのは大学の最後の年だった。流行り病の影響で授業がオンラインに切り替えられ、ひとり暮らしの部屋にこもることになった。外を歩かないので、たぶん体動かした方がいいなと思い、朝、ラジオ体操第一をすることにした。これが続いた。第一までならそんなに疲れないし、なんか健康的でよさそうな感じするし、体が伸びて気持ちいいし。ゆるやかで気合のかけらもないような始め方だったけど、いまも朝の作業前はラジオ体操第一をやっている。第二はやっていない、第二までやると長いし疲れる。理由が怠惰だなと思う。

 自分の怠惰さに気付いたのも最近のことだ。子どもの頃は、自分は真面目だと思っていたが、そんなことはなかった。私は怒られるのがものすごく嫌で、怒られないために、自分のいい加減で怠惰な面を真面目なふるまいでなんとか隠そうとしていたのだ。自分が実行した怒られ回避作戦に、自分が騙されていた。なんだそりゃ、ばかだなあ。

 私は上記のような仕方のないやつではあるけれど、低い近いハードルなら越えられる。低い近い通過点をクリアして、それを毎日こなしていくことも、最近はできるようになってきた。私にはそれができる、とも言えるし、それしかできないとも言える。

2023年9月21日 1355文字 『海を見に行く』

 そもそも、スーツを着るのが苦手なのだ。布地がかたくて伸びないから、動きづらくて体が凝る。ポケットも浅くてぺたりと閉じていて使いづらい。たまにしか着ないからいつまでも慣れない。靴も同様である。パンプス、あれを労働のために履く理由がわからない。見た目だけで選ばれているなら一日動き回ることを軽く見ているのではないかと怒りが湧く。せめて、と思ってフラットシューズを選んだ。かかとが上がっているパンプスよりマシではあるが、足はかたい靴底、から伝わるかたい地面の反作用を受けて疲れやすくなる。もしかしたら、パンプスは疲れにくい、動きやすいと思っている人もいるのかもしれないが、そういう人は自分が特殊な訓練を受けた超人だという自覚を持った方が良い。

 苦手なスーツを着て、苦手な靴を履いて、電車とトラムを乗り継いで、私は大きな区民施設にやってきた。県内の企業が合同で行う説明会、面接会があるのだ。一か月ほど前に、呼吸を落ち着かせながら申し込んで、今日、腹に力が入らないながらも会場までやってきて、会のはじめの全体説明をしかめ面で聞き、いざお好きなブースへどうぞとなったとき、私はまず会場の外に出た。いったんお手洗い~、という言い訳じみた声が頭の中から聞こえた。狭い個室で、ため込んでいたなにかを息とともに吐き出した。呼吸に意識が向くときは、ふだんの呼吸ができていないときだ。胸がうすく圧されているようだ。おなかがどろんとうなだれて力が入らない。頭に膜が張ったようになっている、外界の様子をうまく受け取れない、頭の中がぼやけて考えるとか選ぶということが明晰にできない。会場外の椅子に座り込んで、同年代のスーツたちの往来が目に映る。映るだけで、何も考えられない。

 ぼやけた頭の片隅で、膜をなんとか破った声が、こりゃだめだ、と言った。だめだ、帰ろう。一旦この建物から出よう、今日は天気もいいし、風もあるし、暑くも寒くもないから。

 帰る、と決めた途端に軽くなった。頭や体がすとんと軽くなって、私は足早に外に出た。春だった。空に雲はあるが、おおむね晴天だ。最寄りのトラムの駅で座っていると、風が心地よくてほっとした。いい天気だね、せっかくこんなところまで来たし、海でも眺めない?声がとても素敵なアイデアを提案した。私は、そのアイデア乗った、と返事をして、やってきたトラムに乗った。島しょ部に向かう船が出ている港まで、10分ほどである。この路線には海岸通りという駅があって、あるロックバンドが同じタイトルの曲を作っていたことを思い出す。春が舞う海岸通りを通過したら、港まであと少し。

 港にはパン屋がある。私はここの塩パンが好きだ。飲み物とパンを買って、ベンチに座る。私はどちらかというと山のほうで育ったので、海の匂いはなじみ深いものではない。海の匂いはなまぐさいと感じる、それが嫌ではない。陽光が海の表面にぶつかって反射する。水平線はほとんど見えない、小さい島々が集まった海域だからだ。そのかわり穏やかな海だ。

 しばらくぼんやりしていた。パンがしょっぱくてうまい。晴天の春の海は眺めていると気持ちいい。もう息は苦しくないし、お腹に力が入らない状態もだいぶマシになってきた。ただ、疲れた、疲れた、疲れたから、パンも食べたことだし、そろそろ家に帰ろう。